奇人としての木下百花

2017年9月27日、NMB48の1期生である木下百花が卒業公演を行い、そのアイドル人生に幕を下ろした。(木下流にいうと”更生施設を出所”した)

無茶を承知で知らない人のために彼女を一言で説明するなら

「木下百花とは一般にアイドルに求められるものを反転させたアイドル」

だ。気になった人は是非調べてみてほしい。

そんな木下の卒業に際して、同じNMB48のメンバーたちがtwitterやブログで感謝のメッセージを発信した。これは木下に限らずメンバーの卒業があるたびに見られる普通の光景だ。ただ他のメンバーの卒業のときにはあまり見られない言葉を複数のメンバーが発信していたのが個人的に気になった。

救われた」という言葉だ。

軽い言葉ではない。あまり人と馴れ合わない(イメージの)木下にはそぐわない様な気がするが、一方でなんとなくわかるような気もする。

頭に浮かんできたのは哲学者鷲田清一の文章だ。

奇人のいる街は自由である

出展:鷲田清一「京都の平熱」

異端児とも称される木下百花を「アイドル界の奇人」としての視点から考えてみたい。

奇人とは

一般に「奇人」というと悪いイメージで使われがちだが、鷲田のいう「奇人」は決して悪い意味ではない。

奇人の条件は、効用とか意義といった「合理」とは無縁の行動をとるということ。(中略)人生の習いから確実に外れているけれど、人生、確実に一本筋が通っているという御仁のことである。(中略)身を滅ぼすこともいとわずとことんを貫く。

出展:鷲田清一「京都の平熱」

アイドルに求められるものはハッキリしているようで実は曖昧だ。前提として彼女たちは可愛い。だがアイドル戦国時代の今日、可愛さだけに安穏としてはいるわけにはいかない。なにせ国内の48グループだけで300人はくだらないのだ。

「キャラをつける」のは有効だが、結果的に好かれるか嫌われるか、ファンが増えるか減るかは全く読めない。大体どんな要素が刺さるのか実際のところファン自身にも予測できない。無難で「合理」的戦略はおそらく「アイドルのイメージを壊さない程度のプラスアルファ要素」といったところに落ち着くのだろう。

その意味では木下は確かにアイドル的「合理」の外にいる。原色の髪色や平気で下ネタトークをする姿はアイドルからかけ離れている。

もちろん今でこそ受け入れられ「悟り」を開いた感すらあるが、今に至るまで多くの衝突があったことは想像に難くない。だが突き抜けた。それは多分誰にでもできることではない。

「あほやなあ」とあきれながらも、かれらを、変人を超えて奇人であるとひとが納得するのは、そのひとたちが通す筋にどこか憧れるからだろう。この筋を、行けるところまでとことんたどっていったらどういうことになるかを、そのひとたちが見えるかたちで示してくれるからだろう。

出展:鷲田清一「京都の平熱」

奇人のもたらす救い

想像するしかないが、因果関係も曖昧で、先のことも分からないアイドルで居続けることは精神的にしんどくなることも多いに違いない。暗闇の中歩くようなものだ。道を外れてしまっているのではないかと不安になることもあるだろう。誰に相談しても確かなことはわからない。そんな中、アイドルでありながらその<外>側にいる木下だからこそ与えられた「救い」もあったのではないだろうか。

言ってみればそれは、並の人生に向けられる<外>からの視線である。(中略)奇人のいる街は住みやすい。これ以上行ったらほんとうに終わり、という人生のリミットが眼に見えるかたちで示されているからだ。(中略)逆の言い方をすれば、そのリミットのうちなら何をしでかしてもどうにかなるという保証とも言えぬ保証があるからだ。

出展:鷲田清一「京都の平熱」

誰だって自分をさらけ出すには勇気がいる。つい自分の殻に閉じこもったり、価値観を押し付けたりしがちだ。変だと思われるのは怖い。奇人の存在はそんな恐怖を和らげ、背中をとんと押してくれる。NMBのメンバーの多くがイキイキと個性を発揮しているように見えるのも偶然ではないのかもしれない。

おまえたちが後生大事に守っている人生などほんとうに棒に振るにあたいするほどのものなのか、と問いただしているのである。

出展:鷲田清一「京都の平熱」

奇人のいる街

鷲田は「奇人のいる街には異物を異物として遠ざけながらも、その存在を許す懐の深さがある」という。そういう意味ではNMB48というグループは運営含め懐が深い。奇人をてなづけてしまった。木下はそんなグループのことを「更生施設」と呼び、深く愛した。卒業公演では明確な夢が2つできたと語った。

卒業後もShowtitle所属で活動を続けていくことが発表された。表舞台から降りるのかと思っていたが、私たちはもう少し木下百花という「エンターテインメント」を味わうことができるらしい。

いまやアイドルという世界自体、相当に懐が深い。ステレオタイプ的なアイドル像は徐々に崩れ、「おもろい」なら何でもありな世界になりつつある。言ってみれば「商品」としてのアイドルから、アイドルという「エンターテインメント」へ。

真の「エンターテインメント」は一方的なものではない。「おもろい」という感情のあるところにそれは生まれる。価値の反転すら手段の一つに過ぎない。木下百花はアイドルとしては奇人に違いないが、一流のエンターティナーである。

木下が今後もエンターティナーとしてあり続けるのか、表舞台から降り奇人として生きるのかは誰にも分からない。なにはともあれ、今は”出所”を祝福したい。これからの彼女の人生に幸ありますよう。

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