世界的大ベストセラー『かもめのジョナサン』の武道的考察

こんにちは!

ただ飛ぶことを追求し続け、あらゆるものを超越した境地にたどり着いたかもめを描く『かもめのジョナサン』。1970年の発売以来、全世界で4000万部以上売れているそうです。2014年には30年以上の時を超え、封印されたPart4を収録した完成版が発売されました。

作者のリチャード・バックは飛行機乗りでもあります。他に飛行機乗り作家と言えば『星の王子さま』のサン・テグジュペリがいます。二人とも寓話的な著作があるのも共通しています。

そんな『かもめのジョナサン』ですが、読んでみて驚きました。作中に武道的な考え方がかなり見られたからです。当初から禅の影響を受けていると評価されてきたそうです。

実は僕も高校生の時に武道的な価値観に興味がわき、大学では部活で4年間ほぼ毎日合気道に取り組んできました。その辺の経緯はまたいずれ詳しく書いてみたいですが、今回は武道に取り組んでいて感じることなどを交えて『かもめのジョナサン』を考察してみたいと思います。

以下ネタバレ有です。

あらすじ

漫然と日々を過ごすかもめの群れの中で、ジョナサンはただ速く美しく飛ぶために一人試行錯誤を続けていました。しかしそんな彼の行動は他のかもめ達に理解されず、群れを追放されてしまいます。それでもただ飛び続けたジョナサンはいつしか空間や時間さえ超え、人間愛(かもめ愛?)に目覚め・・・。

ここまでが1970年に発売したPart3までの話になります。終始明るい雰囲気で「周りに理解されなくても、自分の世界を追求していけばいいよ」、「そんな人たちが世界を変えていくんだよ」というような自己啓発的なある種楽観的な話にも思えます。そして2014年に発表されたPart4ですが、

他のかもめに自らの到達した境地を伝えるジョナサンだったが、ジョナサンが去ると群れのかもめたちはジョナサンを神格化しはじめて・・・。

と、Part3までとはうって変わって、希望に満ち満ちている雰囲気はなくなってしまいます。

ジョナサンの境地について

ジョナサンが到達した境地について、ジョナサンの師匠チャン(このネーミングからして東洋からの影響を感じますよね)の印象的なセリフがあります。

思った瞬間にそこへ飛んでゆくためには、(中略)まず、自分はすでにもうそこに到達しているのだ、ということを知ることから始めなくてはならない

チャンは具体的な飛び方は教えません。教えるのは『認識』の仕方です。なんだか論理的でないそれっぽいことを言っているように感じる人も多いと思います。

武道における『認識』

ですが、武道では意外と馴染みのある考えだったりします。武道では後手に回ることは即敗北(あるいは死)を意味します。たとえ相手の攻撃に0.0001秒で反応できたとしても、武道的には負けているのです。反応してはならない。反応する自分を『認識』した時点ですでに負けている。

ではどうするか。『認識』を変えます。いつまでも反応する自分に囚われるのではなく、相手の攻撃をトリガーとして、相手の攻撃を含めた新たな自己『認識』を生成するのです。そうすれば相手の攻撃も自己の一部なので、反応することもなく後手に回ることもありません。

どうも胡散臭い屁理屈に聞こえるかもしれませんが、武道的な理想の境地をなんとか説明しようとするとこんな説明になります。チャン的に言えば、

『どんな敵にでも勝つためには、まず自分はすでにもう勝っているのだ、ということを知ることからはじめなくてはならない。』

一応僕もこのような感覚を経験することがあります。稽古中、自分か相手どちらが動きを主導しているのか分からなくなるのです。

飛行機乗りにおける『認識』

飛行機乗りでもある作者のリチャード・バックに思いを馳せてみます。飛行機乗りといっても旅客機のパイロットではなく、空軍のパイロットでした。

ここからは完全に想像です。一人乗りや二人乗りの軍用機で高度な操縦をするとなると、計器のみならず全身の感覚を働かせる必要があるはずです。ちょっとしたミスが命取りになる空中で、まさに機体と一体になって、ジョナサンのように大気の状態を「肌で感じ」ながら操縦していたのではないでしょうか。

つまり自己『認識』を拡張する必要があった。ジョナサンは飛んでいる時に「自由」を感じますが、リチャードも飛行機に乗りながら同じような感覚をもったのではないでしょうか?

「自由」と表現されるこの感覚ですが、僕は『認識』の拡張に伴う解放感のようなものではないかと考えます。僕も稽古中に時に感じるあの感覚に近いのではないか?そう感じました。

境地を伝える

上に説明してきたような境地を人に伝えるのは非常に難しいです。なぜならまさに境地にいるジョナサンと境地を語るジョナサンはもはや別人だからです。僕が稽古で後輩に指導するときに実際にあったことを例にとってみます。

ぼくはよく、「相手の攻撃を腕の力を抜いて受けろ」と指導します。ある日後輩が言いました、「力を抜いたら受けられません」。物理的に考えてみると確かにその通りです。

よく考えてみると、僕は相手の攻撃を受ける際、自分の腕を「意識していない」ことに気づきました。意識していないことを語ることはできません。それを説明しようとする際に「力を抜く」という表現がでてくるわけですが、言葉だけ聞くと矛盾しているように感じるし、当然後輩には伝わらないわけです。

ジョナサンの師匠チャンのように、武道の指導ではこんな風に矛盾した表現がたくさん使われます。曰く「遅い方が速い」「一定の速さで動くのは止まっているのと同じ」などなど。

こうした表現で伝えたかった感覚を体得しないまま、表面的な言葉に囚われて自分の動きを歪ませてしまっている人もたくさん見ました。ジョナサンの伝えたかった感覚を理解しないまま、ジョナサンを神格化してしまうPart4のかもめ達に重なります。

言葉には確かに共通了解された意味がありますが、言葉を使い自己について語るときどうしても語り切れない部分が出てきます。とはいえ、言葉を使うしかないとも思います。

本屋に行くとたくさんの本が並んでいます。人間は自分の感じたことを伝えたくなる生き物なのかもしれません。ジョナサンのように。例えその結果がどうであれ、それ自体には善悪はないんだと思います。(⇐ロマンチストで失礼笑)

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食と性

あとがきで訳者の五木さんが作中における食の軽視と性描写が無いこと(オスとメスの区別がほぼ皆無)に違和感を覚えると書かれています。

ですが、ぼくは別に作者がこれらを軽視しているわけではないと思います。ただ食と性だけでは幸せになれないと考えているんじゃないでしょうか。

定住生活を始めて以降、人間には暇が生まれました。ですが、ぼくたちはいまだ暇との上手い付き合い方を確立できていない。四六時中食べたり、セックスしたりするわけにもいきません。暇になるとどうしても自意識がでしゃばって、なにをしていても(たとえ暇をつぶしているつもりでも)どこか退屈だなという不満足を感じてしまいます。(⇓以前紹介した國分先生の意見のウケウリです笑⇓)

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ならば、自意識がでしゃばらないようにすればいい。「認識」を拡張するだのどーのこーの言いましたが要は「我を忘れるほど熱中すればいい」ってことです。もちろん熱中できるものは人それぞれですし、それを見つけるのは難しいかもしれません。

ですが円満な夫婦、温かい家庭、普通の生活、気の置けない友達そういった具体的でいかにも幸せそうな価値観ではなく、「熱中しろ」というメッセージをシンプルに語ったからこそ、これだけの大ベストセラーになったんじゃないでしょうか。

そんなわけで、食や性を軽視して、「好きなことで生きていけ」だとか、「好きなことを仕事にしろ」だとか言っているわけではないと思います。

読みやすさ

寓話なので難しい表現はほぼなく、170ページ程ですが半分弱ぐらいはかもめの写真なのでパラパラと1時間ほどで読めます。サラッとしていながら、シンプルで力強い物語です。ぜひ一度読んでみてください!

武道的なものに興味のある方は内田樹先生の本がおススメです。Youtubeで「黒田鉄山」先生の動画を見てみるのもおススメです。

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お読みいただきありがとうございました!
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