人間はなぜ歌うのか?

人間にとって「音楽」とはいったいなんだろう。今ではスマホなどでいつでもどこでも手軽に楽しめる。とはいえ大多数の人にとって「音楽」はもっぱら聞くものであり、自分でやる(歌ったり踊ったり)機会のある人は少数派だろう。自分には音楽的センスなんてないと思っている人も多い。

日常生活で歌う機会は少ない。せいぜいたまにカラオケに行く程度で、それすらない人も多いだろう。「合唱」となると機会はもっと減る。「踊る」にいたっては生まれてこの方まともに踊ったことがない人も珍しくない。かくいう僕もまさにそんな人間だ。

だが本来「音楽」をやるのはもっとありふれた行為だった。少し時代をさかのぼれば、歌ったり踊ったりする機会はもっと多かった。人が集まる儀式や祭礼では歌と踊りは欠かせなかった。またアフリカの一部では、今でも職業的音楽家はおらず、「音楽」は皆がやるものだ。よく考えると私たちもふと気が付くとハミングしていたり、音楽に合わせてなんとなく体を揺らしている。

「音楽」は人間にとってなんなのだろうか?なぜ人間は「音楽」を奏でるのだろうか?今回紹介するのはそんな疑問に迫る一冊だ。

「音楽」とは何か

これまでに「音楽」とはなんなのかについて、様々な説が唱えられてきた。親と子の関係だろうか?異性を魅惑するためだろうか?人間社会に結束を生み出すためだろうか?言語の派生物だろうか?自然の模倣だろうか?単なる娯楽だろうか?

ポリフォニー

「複数パートをいっしょに歌うポリフォニーこそが人間の歌の原初の形だ」と筆者は言う。

これは一見直感に反する。まず一人で歌うモノフォニーがあり、それをもとにポリフォニーが発展したと考える方が自然に思える。筆者はポリフォニー文化とモノフォニー文化の地域分布を比較からそれを否定する。

AVID

ではポリフォニーは何の役に立ったのだろうか?筆者は「ポリフォニーは危険な肉食獣に対する警告だった」という独創的な説を唱え、視覚的・聴覚的脅迫誇示 (AVID:Audio-Visual Intimidating Display)という概念を導入する。

この説は一見、生命の危機を避けるという重要な課題に対して即効性に欠け、回りくどいようにも思える。筆者は太古の人類が暮らしていた環境を慎重に考察していくことで、この疑念を丁寧に取り払っていく。

現代の私たちは肉食獣に襲われる可能性は非常に小さいこともあり、他の肉食獣との関係という視点は意識しづらく、これまでの説でも重要視されてこなかった。だが隠れることもできない草原で大して強くもない肉体で暮らしていた太古の人類にとっては身近な危険だったに違いない。

戦闘トランス

そしてこの戦略に少々の犠牲がつきものである点も忘れてはいけない。自分より集団が優先という特殊な状況には、特殊な精神状態(戦闘トランス)が必要だっただろう、と筆者は言う。

「音楽」は戦闘トランスへの遷移に一役買ったに違いない。「音楽」は様々な効果を人間に及ぼす。よく知られている現象には痛覚無視がある。脳科学の研究でも生存に直結した脳の古層を活性化することが分かっている。

これからの「音楽」

今の私たちは、太古の人類のように生存をかけて一緒に協力しなければならない機会は滅多にない。ではもう「音楽」は必要ないのか?

戦闘トランスとは違うが、「我を忘れる」時間は人間にとって重要に思える。こうした時間の不足は精神的ストレスになりかねない。

「我を忘れる時間こそがより高い人生の価値だ」という考えもあるだろうが、僕としては「自意識という手に余る代物と付き合うために我を忘れる時間が必要なのだ」と思う。考えすぎると頭がおかしくなってしまうというだけの話だ。

趣味や娯楽はそれを防ぐ有効な手段だ。その中でも「音楽」は私たちの肉体に深く根差していて誰にでも開かれている。音楽産業にもここ最近興味深い変化がある。CDの売り上げが半減する一方、ライブビジネスが3倍以上に成長しているらしい。一方的にただ聞く以上の体験を「音楽」に求めるようになっているのかもしれない。

ライブでは全く違う人生を送る様々な人たちが束の間の一体感を味わう。アイドルのライブにおける独特のコール&レスポンスは全音楽文化に共通する原初の形の一つである「応え合う歌唱」のひとつの形と言えるかもしれない。

私たちはもっと自由に「音楽」を楽しんでもいいのかもしれない。

合わせて読みたい!
お読みいただきありがとうございました!
▼この記事を今すぐSNSでシェア!▼