最高にかっこいいフリーター!?天才数学者の生き様を見よ!

岡潔という人物をご存知でしょうか?1901年に日本に生まれた岡潔先生は日本が世界に誇る大数学者です。

先生は多変数解析関数論の分野で当時三つの大問題とされていた問題を全てたった一人で解いてしまいました。しかもその業績は西欧人にはおそらく不可能であっただろうとまで言われます。あまりの凄さに西欧の数学界ではオカキヨシというのは個人の名前ではなく数学者集団のペンネームだと思われていたんだとか。

とはいえ、数学上の業績なんて一般人にはチンプンカンプンですよね?

先生は問題解決の糸口を探るため日本の文化や芸術を研究したそうです。何が何だかわかりませんね。でも少し興味が沸いたのではないでしょうか?

「そんなこと言ったってどうせ天才数学者なんて一般常識に欠けた変人なんでしょ?」という人、ちょっと待ってください。

後年には教育問題日本の今後についても熱い関心を持ち、警鐘を鳴らし続けました。1960年代には多くの本も出版しています。そこには天才の視点だからこそ見えた大切なことがあるはずです。現在でも通用すること、今後の世界の指針になるようなこともきっとたくさんあります。

もちろん奇行と呼ばれる類のエピソードも多くあるのですが、表面的な部分に惑わされず、人生の偉大なる大先輩から人間らしく生きることを学びましょう!今回紹介する『天上の歌』はそんな岡潔先生の生きざまを辿る伝記になっています。

自分の進む道を定めるのが案外遅い

数学者と聞くと、生まれた時から数字だけが友達!みたいなことを想像してしまいますが、先生はそういうわけではなかったようです。むしろ小さい時は自然や雑誌が大好きで、数学でできない部分があったエピソードが紹介されています。

そして、もともと三高には工科として入学しています。今後について色々と思い悩むこともあったに違いありません。

ですが、どこかで数学に惹かれ続けていたのでしょう。様々な体験やきっかけがあり、21歳の時、理学部物理学科に進学します。理学部ということで一応数学には近づきますが、物理学科なので厳密にはまだ数学が専門ではありません。

そして理学部で学ぶ中偉大な数学者リーマンを知り、数学の道を進むことを決意します。

しかしここでもすぐに踏み出したわけではありません。当時の先生は「発見の鋭い喜びの体験」をしない限り、踏み出すことはできないと考えていたようです。

ひたすらに数学と向き合い続け、その体験を追い続けます。もちろん大学なんて行っている暇はありません。自主休学です。

今後本当に自分は数学の道を進み続けられるのだろうか。そう思い悩む中で自分を支え続けてくれるような確かな体験を欲していたのだと思います。後に天才と呼ばれる大数学者の人間的な部分が垣間見えるのではないでしょうか?決してとりあえずの理由付けで済ましたりしない。僕はその人生に対する真摯な姿勢に感動ました。

そしてついにその発見の体験を果たし、数学科へ転科します。一生歩み続けることになる数学の道の第一歩を踏み出すのです。その頃の気持ちをこう言っています。

まるで花々の色とりどりに咲き乱れた花野に遊ぶような気がする。

もちろん先には険しい問題の山々が待ち受けているのですが、このように感じられる瞬間があるということは素敵なことだなと思います。

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このとき22歳ですが、22歳と言えば現代ではストレートで進学した人が大学を卒業する年齢です。最近では高校で文理に分けられ、いつまでも遊んでないで、進学や就職のため自分のやりたいことを定めろ、と言われます。とは言われても、そんなことそう簡単な話ではありません。そういうものが見つけられる人は一部の天才で、現実と折り合いをつけて生きていくのが人生だ、という考えもあります。

しかし、後に天才数学者と呼ばれる先生も本格的に自分の道を定めたのは案外遅かったのです。進学や就職など自分の人生が定まるように感じる出来事はありますが、だからといってどこか自分の楽しいと思う部分を諦めてしまったり、忘れてしまう必要はないと思います

37歳でフリーターになる

数学者の道を歩み始めた先生ですが、もちろん霞を食って生きていくことはできません。大学の講師をしたり、官給留学をしながら生活していたそうです。この頃結婚もしています。ところが37歳で、それまで働いていた助教授の職を37歳で休職し、そのまま退職してしまいます。

理由はもちろん研究に没頭するためです。

妻も子供もいましたが、収入はなくなり一家は岡の実家に身を寄せます。フリーターとは書きましたが、ニートの方が近いんじゃないかと思います。実家の土地を切り売りしながら生活していたそうです。

おそらく周りは大変な苦労をしたことでしょう。やはり、数学者なんて偏屈で自分のことしか考えていないのでしょうか?先生はこういっています。

自活する道があるのに講義などで研究を妨げられるようなことはすべきではない。

自活をしなければならない、とは思っていたようです。ですので、このような生活は先生のなかではギリギリ自活の範疇だったのではないでしょうか?

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家族は受け入れてくれると考えていたのか、そんな考えさえ浮かばないほど家族の絆を確信していたのかはわかりませんが、自分のことしか考えてなかったというわけではない気がします。家族のことを蔑ろにしていたわけではないのは、本当に売る土地もなくなり困窮すると職を探したことからも察することができます。

そしてそうした生活の中、大問題の一つを解決するのです。

岡潔の教育論

先生は決して社会に対して無関心ではありませんでした。特に戦後の教育には警鐘を鳴らし続けました。

きっかけは48歳で奈良女子大学の教授になり、講義をし始めたことでしょう。三大問題を全て解決し終えた時期とも重なります。外に目を向ける余裕ができてきたのか、外のことを見過ごすことができなかったのか、おそらく両方でしょう。

先生の教育論の具体的な内容については触れませんが、印象的なエピソードを紹介します。

女生徒たちを教える中、女生徒たちを3つのタイプに分けられることに気が付きます。Aが数学は姿の見えないxであって、このxが言葉を操っているということを無意識にでも知っている者。Bが数学を言葉だと思っているもの。Cが数学を記号だと思っているもの。

ところが徐々に、いずれにも当てはまらないDが増えて、その分A,B,Cが減ってきたそうです。先生はDの生徒の正体がつかめず、どのように教えればよいかわからなかったそうです。時期的には戦後の教育が普及してきた頃で、そこで先生はDを生み出したと思われる戦後の教育に疑問を持ちました。

なんとなくですが、Dは学問に真摯に向き合えていない人達なのかなと思います。言い表せているか微妙ですけど。学生として僕自身や周りの様子を振り返ってみると、現代ではもうDが多数派になっているような感じがします。そしてそれは今後なんとかしていかなければならない問題なんじゃないかなと思います。戦後すぐにそのような兆候を感じ取ったのは流石と言う他ありません。

その他いろいろ

芸術方面の造詣が深い

先生の著作を少し見てみると、芸術や文化に驚くほど精通していることが分かります。さらにそうした作品の作者たちを、時代背景なども含めて自分の中に位置づけています。単に娯楽や趣味としてを楽しむことに留まらず、人生に向き合うために自然とそうした作品を欲したのではないでしょうか?もちろん先生にとって人生は数学と同義です。

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学問へのこだわり

大学進学率も高くなり、研究者への入り口も広くなりました。ですが、人数が増えても、質が上がるとは限りません。少し前に論文の不正が問題になりましたが、質の低い研究者も随分増えているのではないでしょうか?

先生は構想のない数学を嫌い、論文を発表するということは新たな意義のあるものを創造することだと考えており、例え一般に論文と認められるほどの内容でも自分で納得のできない限り発表しなかったそうです。理想の研究者像ではないでしょうか?

論理も計算もない数学

「僕は論理も計算もない数学をやってみたいと思っている。」

大学時代、先生は友人たちに語ったそうです。一見なんだそれ?という感じですが、成し遂げた三大問題の解決はまさしくそういう数学だったといわれます。

後年、教育問題に取り組む中で、欧米人は前頭葉のみを使い小我に囚われていると批判します。人生の中で数学をするのではなく、数学の中で人生を送り、欧米人には不可能だったといわれる業績を成し遂げた先生ならではの説得力があります。

読みやすさ

伝記なので、具体的で読みやすいです。260ページ程ですが2時間強で読めました。

まとめ

岡潔という人物を知る入り口としておススメです!今人生に迷っている人は先生の生き様にきっと勇気をもらえることでしょう。

また、先生の主張には現在にも生かせることがたくさんあります。逆に言えば、先生が危機感を感じた状況は改善されていないとも言えるかもしれません。ですが、多くの著作を残されているのは幸いです。興味の湧いた方はぜひ先生の著作をどうぞ!春宵十話がおすすめですよ!

 

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